Substackで「100日間、毎日書く」というチャレンジを始めて、もうすぐ40日になります。
最初の記事で、私はこの場所を自分の「公開研究室」にすると書きました。
日々の出来事を記録する。
そこから問いを見つける。
考える。
また実践する。
そんなことを40日近く続けてきて、24年間、感覚的にやってきたことの中に、一つの共通項が見えてきました。
それが「場づくり」です。
私はこれまで、教育の仕事をしてきました。
でも最近、自分がやってきたことを改めて見ていると、単に「教えること」だけではなかったのかもしれない、と思うようになりました。
人が安心できる。
自分の居場所がある。
自分で考えられる。
誰かに認められる。
やってみようと思える。
そういう状態が生まれる環境をつくること。
子どもを動かそうとするのではなく、本人が動きたくなる場をつくること。
そしてこれは、教育だけに限った話ではないのではないか。
今は、そんなところまで考えています。
不便になったのに、生徒たちは来た
この夏、塾の自習室でちょっとしたトラブルがありました。
中学3年生が夏期講習中に自由に自習室を使えるよう、スマホでオートロックを開けられる仕組みを準備していました。
ところが初日、まさかの機械トラブル。
スマホでは鍵を開けられず、アナログの鍵を使わなければ自習室に入れなくなりました。
そのとき私は、
「これでは、誰も来ないかもしれないな」
と思いました。
わざわざ鍵を取りに来る。
自習室を開ける。
そこで勉強する。
終わったら、また鍵を戻す。
そこまでして、自習室を使うだろうか。
ところが、生徒たちは来ました。
自分たちで連絡を取り合い、鍵を受け渡し、わざわざ自習室を開けて、そこで勉強していたのです。
私は、それに少し驚きました。
便利な仕組みがあったから使っていたわけではなかった。
先生に「来なさい」と言われたから来ていたわけでもなかった。
不便になっても、それでも自分たちでそこへ来て、勉強する。
その姿を見て、
「この自習室は、いつの間にか彼らにとって、自分たちで使う場所になっていたのかもしれない」
と思いました。
この出来事をSubstackに書きながら、
教育は、子どもを動かすことではなく、本人が動きたくなる環境をつくることなのかもしれない。
そんなことを考えました。
でも、そう考えると、次の問いが出てきます。
では、どうすれば、そんな場が生まれるのでしょう。
鍵を渡せばいいわけではない。
自由にさせればいいわけでもない。
どんなルールを置くのか。
どこまで本人に任せるのか。
どんな関係をつくっておくのか。
いつ手を出すのか。
いつ待つのか。
私は24年間、たぶんそういうことを、その都度考え、判断しながらやってきました。
でも、
「では、その判断基準を全部説明してください」
と言われると、簡単ではありません。
24年間で蓄積された「暗黙知」
先日、長年お世話になっている腱引き整体の先生と話していたとき、こんなことを言われました。
「抽象的なものを言語化すると、次元が下がることもある」
例として出てきたのが、長嶋茂雄さんの話でした。
バッティングについて細かく理論で説明されるより、
「シュッとやって、パッと打つ」
と言われたほうが、かえって感覚をつかめることもある。
もちろん、だから理論はいらない、という話ではありません。
言葉にすることで伝わるものがある。
一方で、言葉に変換した瞬間に抜け落ちてしまうものもある。
この話を聞いて、私の中でつながったのが、マイケル・ポランニーの「暗黙知」という考え方でした。
人間には、言葉で明確に説明できる知識だけではなく、経験や身体感覚の中に蓄積されている知がある。
たとえば、自転車。
自転車の乗り方を文章で説明することはできます。
でも、その説明を完璧に読んだからといって、それだけで乗れるようにはなりません。
実際に乗って、ふらついて、バランスを崩しながら、身体で覚えていく。
場づくりにも、これと似た部分があるのではないかと思っています。
誰に声をかけるのか。
あえて声をかけないのか。
どこまで任せるのか。
いつ介入するのか。
どんなルールなら窮屈にならず、それでも場が崩れないのか。
一つひとつを後から説明することはできても、その瞬間に受け取っているものをすべて言語化することは難しい。
表情。
声の調子。
これまでの関係。
集団の空気。
過去に似た場面で起きたこと。
そうしたものを、私はおそらく無意識のうちに組み合わせながら判断しています。
これまで「経験」や「勘」と呼んできたものの中にも、24年間で蓄積された暗黙知が相当あるはずです。
それでも、人に渡せるものはある
だからといって、
「これは24年間やってきた私だからできることです」
で終わらせたくはありません。
全部をマニュアルにする必要はない。
そもそも、全部をマニュアルにすることはできないのかもしれない。
でも、分解してみれば、人に渡せるものはあるはずです。
たとえば場づくりなら、
どんなルールを置くのか。
どこまで本人に任せるのか。
安心して失敗できる状態をどうつくるのか。
人と人をどうつなぐのか。
どんな余白を残すのか。
こうした部分は、ある程度、言葉にしたり、仕組みにしたりできるかもしれません。
そして最近、もう一つ考えていることがあります。
24年間の経験を、私一人で完全に言語化してから誰かに渡そうとしなくてもいいのではないか。
むしろ、誰かと実際にやりながら、一緒に育てていく。
そんな方法があるのではないか、と。
人に伝えることで、自分の「勘」が見えてくる
自分がやってきたことを、まず言葉にしてみる。
誰かに実践してもらう。
すると、
「これは伝わった」
「ここはわかりにくい」
「同じようにやったのに、うまくいかなかった」
「私はこう変えてみた」
ということが起きるはずです。
そこで初めて、自分では当たり前すぎて気づかなかったものが見えてくる。
つまり、他者に伝えることそのものが、自分の暗黙知を発見する作業にもなる。
知識は、完成したものを「教える人」から「教わる人」へ渡すだけではなく、共通の実践をする人たちの関係や対話の中でも育っていく。
これは、エティエンヌ・ウェンガーらの「実践共同体(Community of Practice)」の考え方にもつながります。
ただ、今の私にとって大事なのは、理論の名前そのものではありません。
「一人で完成させなくてもいい」
ということです。
「場づくり」を、場の中で育てる
考えてみると、少しおもしろい。
「場づくり」を言語化しようとしているのに、その方法自体が、場をつくって誰かと一緒に育てることになる。
でも、たぶんそのほうが自然です。
まず言葉にしてみる。
実際に誰かとやってみる。
そこで起きたことを見る。
また考える。
必要なら変える。
そして、その人の実践から、私自身も学ぶ。
そうやって初めて、
「私だからできたこと」が、「誰かにも使えるもの」に変わっていく。
私は教育の現場から、この問いを考え始めました。
でも今は、教育だけの話ではないと思っています。
会社にも、お店にも、チームにも、コミュニティにも、人が集まるところには必ず「場」があります。
そして、同じような人が集まっていても、なぜか人が自分から動き始める場もあれば、誰も動かなくなる場もある。
その違いは何なのか。
どこまで言葉にできるのか。
どこから先は、体験の中でしか伝わらないのか。
そして、それを誰かと一緒に育てることはできるのか。
Substackの100日間チャレンジも、もうすぐ40日。
最初は、
「100日書き続けたら、何が見えてくるだろう」
という気持ちで始めました。
まだ答えが出たわけではありません。
でも40日近く書いてきて、少なくとも一つ、これから掘っていきたい問いの輪郭が見えてきました。
24年間の実践から見えてきた「場づくり」を、私一人の経験のままにしない。
完成した答えを発表するのではなく、実践しながら開いていく。
残りの日々でも、その過程をこの公開研究室に記録していこうと思います。
もし、あなたの職場や教室、チームにも、
「なぜかわからないけれど、ここでは人が自分から動く」
という場があったら。
そこでは、何が起きているのでしょう。
私も、そこをもっと知りたいと思っています。
日々の生活や経験を研究につなげる
「オートエスノグラフィー」を実践しています。
54歳からの大学院挑戦。
果たして合格できるのか。
その過程も含めて、ここに記録していきます。共感してくださった方、応援してくださる方は、リスタックしていただけたらうれしいです。


とても興味深く読ませていただきました。人が自ら動く場づくり。私も塾運営や会社勤め時代に実践してきましたが、その原動力の正体を解き明かすまでには至っていません。ゆきえすたさんの公開研究室を拝読しながら、過去の記憶と進行形の子育てを観察して改めて考えてみたいと思います。
そして、オートエスノグラフィー!僕もとても興味があって、自分の体験と感情を記録しながら、オンラインコミュニティなどで色んな方の考えに触れています。
ゆきえすたさん、おはようございます。
毎日投稿、40日目って、すごいです!
人が自分から動きたくなる場を作るのって、ほんと考えると面白いですね。
強い感情が起きて思わず動きたくなるまでの過程。
「本人が動きたくなる環境をつくることなのかもしれない」そういう場をみんなと一緒に作っていくことで、動きたくなるのかもしれないと感じました。
自分たちで作った場だったら、活用したくなるかなと思いました。
心が動く記事をありがとうございます🎶